アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<訃報>本紙・山岡のジャーナリストの先輩で、恩人が死去

 本紙・山岡が報道の世界に入ったのは、入社試験を受けて『噂の真相』の岡留安則編集長と面識を持ったのが最初。
その岡留氏が、ほどなく紹介してくれたのが、『週刊宝石』のベテラン記者だった金沢誠氏。かたちだけの試験を受ければ、『週刊宝石』記者になれるはずがなぜか✕。
人生とは皮肉で、通っていたら金沢氏の専門だった芸能関係の記者に本紙・山岡はなっていただろう。また、『週刊宝石』は2001年1月に廃刊になるから路頭に迷ったはず。
ところが、そういうわけで、次にほどなく岡留氏が紹介してくれたのが、今回、67歳で逝去したジャーナリストの伊藤博一氏だった。
伊藤氏はすでに当時、有名な事件記者で、本紙・山岡は伊藤氏に雇われ、毎日、東京・大久保の伊藤氏の自宅兼事務所に通った。そこで初めて『四季報』を見るようになり、週刊誌、経済誌の事件関係の取材の手伝いをしていた。ほとんど書生という感じだった。
その時、伊藤氏の事務所によく出入りしていたのが、現在も活躍している須田慎一郎氏、『週刊新潮』の草野敬氏、田口智氏両氏、「帝国データバンク」の中森貴和氏、「毎日新聞」の社会部記者などだった。
 そして約1年後、伊藤氏の紹介で、『週刊大衆』に欠員が生じたということで、月刊経済誌『ZAITEN(当時は『財界展望』)』の編集者をしていた木元英策氏と一緒に専属記者に滑り込んだ。
1990年の新年からで、伊藤氏の事務所で1年弱、書生もどきをしていた時に弾けたのが戦後最大の経済事件といわれたイトマン事件だった記憶がある。
そういうわけで、伊藤氏は本紙・山岡に取材のやり方を教えてくれた大先輩であり、また、それから30年以上、現在も『週刊大衆』で禄を食むことになったわけで恩人でもある。
ところが、伊藤氏は大の酒好きで、糖尿病が悪化し、約10年前に深刻に健康を害し、5年ほど前からは透析を始め、ジャーナリスト活動ができなくなっていた。
本紙・山岡は告別式に出たが、ジャーナリストの伊藤博敏氏の姿もあった。祭壇には『週刊大衆』に加え、『週刊新潮』、『東京新聞』記者一同、それにジャーナリストの森功氏、門脇護氏らの名前があった。
合掌。

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