2月3日、大先輩だった金沢誠氏が死去した。がんだった(種類は不明)。 鳥取市生まれ。同志社大経済学部卒。メディア総合紙「文化通信」、『週刊宝石』(休刊)記者を経て独立。 39歳の時、経験を書いた『芸能記者スクープの罠』で作家・著述業へ転身。『視聴率操作殺人事件』『芸能プロ殺人事件』(いずれも中央公論新社)、『ダウンロード殺人事件』(桃園書房)など著書多数。享年62歳とのことだ。 通夜は2月9日(日)午後6時から、告別式は10日午前10~11時まで『医王寺』(東京都稲城市)で行われる。 本紙・山岡が金沢氏に出会ったのは25年以上前、『噂の真相』(休刊)の岡留安則編集長(当時)の紹介だった。 当時、山岡は『噂の真相』の社員募集にも落ち、方向が定まらないままフリーで何とか食っていた20代。それを見かねた岡留氏が、『週刊宝石』の記者の枠が空いたみたいだといって紹介してくれ、待ち合わせの新宿の喫茶店に現れたのが金沢氏だった。 ともかく、週刊誌の世界は24時間全国どこでも飛ぶのが当たり前のタコ部屋労働状態と思っていた山岡は、期待の一方で不安でもあり、相当の緊張感で持って会ったのを記憶している。 しかし、金沢氏は落合信彦似ながら、実に優しく対応してくれ、山岡は「ともかくお願いします」と頼み込み、それに対し、金沢氏は「わかりました。ただ、形だけなので面接を受けて下さい」で別れた。ところが、山岡は『噂の真相』に続きまた落ちた(後日、『噂真』で書いた記事を提出したのがマズかったとの情報もあるが真偽不明)。 ほどなく、岡留編集長から今度は伊藤博一氏を紹介され、山岡は『週刊大衆』の専属記者となるわけで、人生はどう転ぶかわからないものだ。 金沢氏はTVを始めとするメディア、それに芸能関係に特に強かったので、もし『週刊宝石』に受かっていたら山岡はその両方の専門を志向したと思う。 ところが落ち、伊藤氏は事件記者だったので、山岡は結果的にそちらの専門になった。 しかも、『週刊宝石』は01年1月に休刊になっており、もし、こちらに受かっていたら山岡は週刊誌の専属記者の職を失っていたことになる。 『週刊宝石』記者の話がダメとなった時は相当ショックだったと思うが、いま現在は、それで『週刊大衆』の方に行くことになり、結果的に良かったと思っている。 それでも、それが縁で金沢氏と知り合いになれ、『週刊大衆』で一時は芸能関係記事の取材で資料やコメントをもらいに、特に金沢氏が「代々木上原」駅近くに事務所を置いていた時代はよくお邪魔させていただいた。 まったく威張ったところのない、本当に優しい先輩でした。 62歳とは余りに早過ぎる死ですが、どうぞ安からにお眠り下さい。合掌。…