アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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元「フライデー」名物記者・新藤厚(右翼)の続・貧困記 第21回「立冬」

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新藤厚 1951年生まれ(73歳)
1971年 週刊誌記者
79年~84年 テレビレポーター (テレビ朝日・TBS)
84年~99年 「フライデー」記者
99年~2008年 信州で民宿経営
2013年より生活保護開始(24年後半より脱出)

前回、野村秋介さんの最期について記したら、山岡が「朝日新聞でのピストル自殺に連れて行ってもらえなかった理由は何だったのですか?」と聞いてきた。
ひとがせっかく感傷的に故人を偲んでいるのに、身も蓋もなくこういうことを聞いてくるから取材記者という人種は嫌いである。
「俺の場合、蹉跌は酒と女しかないぢゃねえか」
野村さんは独特の自己顕示欲があったから、生涯の最後にヴェルサーチの似合う自分の写真集をつくろうと思い立った。こういう自己演出ができる右翼はまずいない。
野村さんはモロッコを舞台に写真を撮りたくて、それを実現させてから死んだ。
それは若い頃に稲川会の幹部だった「モロッコの辰」こと出口辰夫が野村さんの兄貴分だったからである(映画『修羅の群れ』では北島三郎が演じた)。
写真集は野村さんのモロッコの辰へのオマージュだったのである。
「どうだい、ニヒルな男だろう」野村さんはよくモロッコの辰の写真を見せながらいっていた。
ついてはカメラマンを紹介してくれというので、不肖・宮嶋茂樹を紹介した。
「その旅行に俺も行きたいなあ」というと、わざわざ小生が旅券を取るまで待ってくれて、フィリピンの旅に連れて行ってくれたのだった。
これが野村さんとの「別れの旅」というのはみんな分かっているので、夜ごと飲んでは涙を流すという旅だった、というのは何度も書いている。
マニラに着くと早々に、野村さんを除く同行の男5人は野村さんにコンフォートガール(慰安婦)を買わされた。
「俺はいいですよ」と断ると「郷に入れば、だよ。これで生活している女もいるんだから」と押し切られた。
そんなわけで旅の間、ホテルの部屋にはいつも言葉の通じない売春婦がいたのである。
さすがにマニラ湾のコレヒドール島に慰霊に行くときには「英霊に失礼だから」と置いていった。
最後に野村さんは女衒に50万ほどのカネを支払っていた。
小生は若い頃からなぜか「買春」が嫌いだった。
格好をつけていうと、オンナはカネで買わなくとも不自由しなかったからである。
だから旅の間に言葉も通じない慰安婦は放りっぱなしで、日本語を話す女と親しくなった。夜はその女の部屋に忍び込んだ。
それが野村さんが撮影のために連れて行ったスタイリストだったわけである。
帰国してから、そんなことがバレたのが野村さんの不興を買ったのかもしれないと思った。
ただよく考えてみると、野村さんが自決の現場に小生を同行しなかったのは野村さんなりの深謀遠慮があったのだろうと、いまは思っている。
実は30年以上もたってその女性のことを思いだしたのはいいが、名前はおろかその顔もまったく浮かんでこないのである。
彼女の麻布十番のアパートにはよく通ったのに、この体たらくである。
老人の慰安は回想と追憶にしかないのである。
なかでも「むかしの女」の思い出は、ことのほか甘美なのである。
その記憶を失うというのは何とも淋しいかぎりであった。嗚呼。

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