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<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第148回「四天王と青春歌謡アイドル」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 最近、橋幸夫がアルツハイマーになったというニュースが話題になった。またある日は、「徹子の部屋」を見ていたら、77歳の三田明(結構若々しい!)が登場して懐かしかった。そこで思い出したのが往年の「青春歌謡アイドル四天王」だよ。
 当時「四天王」とは人気絶頂の、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、三田明の4人のことだった。1960年代、特に63~66年あたりは、10代の女子たちのほとんどがこの4人の誰かに夢中になっていた。あの頃の芸能誌『平凡』や『明星』(月刊と週刊と両方あった)の表紙を毎号のように飾っていたっけ。ちなみに最初は、橋・舟木・西郷の「御三家」だったのだが、後発の三田明が加わって「四天王」となったようだ。
 4人のなかでも年長でデビューも早く、アイドルっぽくない近所の兄ちゃん風の橋幸夫は、最初のヒット曲は「潮来笠」だけど、吉永小百合(まだ高校生)とのデュエットでおなじみの「いつでも夢を」(62年のレコード大賞)が大ブレイクで、青春歌謡史上の名曲となった。映画も観たけど、下町で働く勤労青年・少女たちの前向きドラマがなんともけなげだ。橋幸夫はその後、「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」とか「恋のメキシカンロック」とか、クロスオーバー的ポップ歌謡にも挑戦して、昭和歌謡史に輝く歌手となった。
 お次の舟木一夫は、何と言っても学生服姿で歌った「高校三年生」(63年)で決まりだね。70歳超えてこれを歌ってもサマになるのがすごい! 当時、あの前髪を少し垂らしたヘアースタイルを真似した若者がやたらといたっけ。映画は和泉雅子との共演が多く『高原のお嬢さん』(65年)なんて、歌も映画も良い(こちとら小百合派というよりは雅子派だ)。舟木もまた昭和歌謡史に燦然と輝く歌手となった。

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