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元「フライデー」名物記者・新藤厚(右翼)の続・貧困記 第1回「憧れの姨捨山へ」

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新藤厚 1951生まれ(73歳)
1971年 週刊誌記者
79年~84年 テレビレポーター (テレビ朝日・TBS)
84年~99年 「フライデー」記者
99年~2008年 信州で民宿経営
2013年より生活保護開始

旧臘半ば、北のプアハウスに引っ越してきた。
引っ越しの荷物整理やら過酷な労役で老体はボロボロになったがなんとか生きている。団塊はしぶとい。
昭和100年、齢75の新春は近所の公園で山の稜線からのぼる初日の出を遥拝した。
集まった十数人と県歌「信濃の国」を合唱した。
県民の誰もが県歌を唄えるのは日本でも恐らく信州だけだろう。素晴らしき風土である。

余生はリアルにあと一年という段階でなんとか「終の棲家」に滑り込んだ格好である。
この土地に憧れたのは実はもう何十年も前のことである。
平安のむかしから、
わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見て (古今和歌集)
という更科は「姨捨の月」「田毎の月」で有名な歌枕の地である。
芭蕉は「更科紀行」で、
俤や姨ひとり泣く月の友
と詠んだ。
その姨捨山が安アパートの窓から正面にそびえている。
生涯でいちばん好きな小説が「楢山節考」という老人にとってこの国でいちばん有名な「棄老伝説」の姨捨は夢の土地だった。憧憬のふるさとであった。
いつかはこの土地に棲みたいと思っていた。
これからただ死を待つだけの老人にとって終の棲家といえば文学的にはまさに更科姨捨しかないのである。

昨年晩秋、佐久のソーシャルワーカーからこのプアハウスの話を聞いてこころが動いた。
さっそく現場を見学に来てひと目で気にいった。
高台から望むと、北の善光寺平(長野盆地)から細くしぼられた土地の先に小ぶりな扇状地が広がっている。
東西に低い山並みが迫り、中央を千曲川が流れる。向こう岸はアンズの花見で名高い埴科の里、こちら側が更科の郡である。
川沿いに戸倉上山田という古くからの温泉場がある。
遠くに浮かぶ白い山は飯縄、戸隠、菅平と志賀高原である。
そして背後に老人を捨てに行ったという憧れの姨捨山。
ふたつの里が合併して更科と埴科で更埴なんて馬鹿な名前をつけたが、いまは千曲市という。行政上は「さらしな」の古名はとうに消えた。いまは蕎麦ぐらいにしか残っていない。

安アパートは思ったほどスラム化もしていないし簡素ですっきりしている。
部屋も今までのボロアパートよりも広い。約74平米、これで家賃が駐車場2台付き1万5000円ならば物価高のニッポンとは思えない。だから貧乏人は田舎に流れて暮らすのである。
と思ったら老人の早合点で、この部屋は同居人があることが条件で単身者では申し込めないという。
がっかりしていると地元の生活相談員が妙なことをいう。

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