アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第81回「アントニオ猪木の思い出」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 アントニオ猪木が亡くなって、ニュース、新聞、雑誌などいろいろ目を通したが、思い出しては気になることがいくつかあった。まずは以前にも取り上げた『チャンピオン太』のテレビ版(62~63年)に悪役レスラーの役柄(死神酋長という)で登場した20歳の頃の貴重な映像である。こちとらも毎週観ていたが、まさか死神酋長がここまでグレートになるとはね(力道山は63年にヤクザに刺された傷が悪化して亡くなった)。しかしメディアでは、『チャンピオン太』のことは話題にもならないんだ。
次は1976年6月26日、東京で開催された「格闘技世界一決定戦」のモハメッド・アリとの世紀の対戦だ。当時学生だったが、テレビ中継を夢中になって観ていた。しかし猪木の寝っ転がり戦術で次第にシラケ始め、終了時は観客席からも大ブーイングだったのを覚えている。あれは一体なんだったのだ。
3つめは、スポーツ平和党である。1989年の参院選のことだ。このときは消費税をめぐって、社会党(土井たか子の「山が動いた!」)が大躍進、猪木率いるスポーツ平和党も「国会に卍(まんじ)固め!消費税に延髄斬り」と掲げて議席も獲得し、翌年のイラクのクウェート侵攻に際しては、人質解放に一役買ったりして大活躍だったのだ。しかし党は分裂して、猪木もスキャンダル報道もあって、政界から消えて、それからしばらくして維新の会でまた復帰する。あのドタバタは何だったのだ。今でも不可解なり。

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