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新藤厚 1951年生まれ(73歳)
1971年 週刊誌記者
79年~84年 テレビレポーター (テレビ朝日・TBS)
84年~99年 「フライデー」記者
99年~2008年 信州で民宿経営
2013年より生活保護開始(24年後半より脱出)
夏というと人口に膾炙した三鬼の句を思いだす。
おそるべき 君等の乳房 夏来る
男なら誰もがそう思うのではないだろうか。
西東三鬼はむかしから好きな俳人で、17歳のランナウェイ時代から岩波文庫の句集を持ち歩いていた。
「神戸」などの自伝的エッセイを読むと、その人品は根っからの自由人である。
コスモポリタンでニヒリストでボヘミアンの歯科医とくれば、少年は遠く憧憬を抱く。
むかしNHKでやった早坂暁のテレビドラマ「夜の桃」もおもしろかった。たしか小林桂樹が三鬼を演じたのではなかったか。
先日の絵手紙教室ではまた三鬼の、
中年や 遠くみのれる 夜の桃
をパクってヘタクソな桃の絵を描いてみた。
いうまでもないが「夜の桃」とは生身の女体である。
いまでいうEDを予感する中年男の不安である。「中年の危機」というやつだ。
前回書いた、零落した中央競馬の馬主だったIが30年以上もむかしを思いだして、懐かしそうにいったのである。
ふたりで新宿ゴールデン街のいつもの安酒場で呑んでいると、そこに小生の当時の愛人が合流したらしい。
小生はアル中の40過ぎの草臥れた中年である。愛人は20代の終わり頃だったろうか。
「そこで新藤さんが彼女に『さあ、帰っておまんこでもするか』っていって席を立つんですよ。カウンターの若い連中が目を点にして、それから大いに悔しがってました」
そういえば愛人と一緒のときはいつもそんなことをいっていた。人の悪いスケベオヤジである。
いまから思うと夢のような、そんな時代もあったのである。
あの時代は女性に対して「チビデブブスバカ」というストレートな物言いを対面で平気で発語していた。
ルードなオヤジである。時代とはいえ悲惨なマチズモであった。
いまの世の中ではとても生きていけない。昭和でよかった。
小生の生涯で、多少なりと人に比するものがあるとすれば「色事」かもしれないと思った。
自分でいうのも何だが、破滅的なまでの女好きであった。
ふと人生の最後にわが「土佐源氏」を語ろうと思ったのである。
ところがつらつらと思いだしてみても愛人の名前や面相体形性癖の記憶がはっきりしているのは5、6人ほどで、あとはほとんど記憶に残っていないのである。
むかしから「色三月」という。
色事なんて3カ月しかつづかない。だから刹那的でいいんぢゃねえか。
それを実践してきたから語るべき「女性遍歴」や「色懺悔」は数多あるはずなのに、加齢による脳軟化で過去がきれいさっぱり消去されてしまったのである。
残念とは思わないが、ちょっと寂しい。
タチアオイの赤白ピンク、ノウゼンカズラのオレンジ、フヨウの白や赤が炎暑の下、いたるところに咲いている。
街路樹では合歓の木やサルスベリのちょっと毒々しいピンクの花。すべてが夏の色である。
更科の鄙ではじめての夏は、高原盆地から引っ越してきた老体には湿度が不快である。
標高が400メートルも低いから蒸し暑さがたまらない。
老人の終活ブログだから、例によって「転倒の話」を書かないわけにはいかない。
相変わらず山でも町でも日常的によく転んでいる。
このところ戸倉温泉「白鳥園」の露天風呂に涼みに行っている。なにせ障害者は入湯料が50円だから。
露天風呂から出てプラスチックの椅子に腰かけ、濡れた躰のまま陽光を浴びて千曲川と背後の山並みを眺めていた。こうしていると涼しい。
目の前の手すりに両足をかけ、椅子の前足を浮かせて揺らしながら「太陽がいっぱいたぜ」などと能天気に呟いていた。



