アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<12年ぶりの復活連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚(右翼)の貧困記(生活保護老人のノスタルジックな日々)第7回「あの横井英樹にマイクを突き付けた」

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新藤厚 1951生まれ(73歳)
1971年 週刊誌記者
79年~84年 テレビレポーター (テレビ朝日・TBS)
84年~99年 「フライデー」記者
99年~2008年 信州で民宿経営
2013年より生活保護開始

小満を過ぎ皐月の薫風のなかこの地でも田植えがはじまった。
田に水がはいり、苗の緑に染まっていく風景はいつ見てもいい。
畦にはカキツバタやアヤメの紫や黄色の点景が映える。いたるところに薄紫のフジの花がさがり、ニセアカシアの白い花が濃厚な香りを放っている。

久しぶりに社会福祉協議会の炊き出しの列に並んだ。定期的に開かれる生活困窮者への食糧支援である。
定刻前に行ったのに集まっている人の数に驚いた。やはり年寄りが多いが一様に暗い表情の人々がたむろしている。配布数の100を超えて支援にありつけずあぶれる人もいる。数年前とは様変わりした光景だった。
軽自動車にちいさな子供を3人ほど乗せた母親はシングルマザーだろうが顔つきは明らかに病んでいる。子供たちも放心したように表情がうすい。
ふと終戦直後のあの貧乏だった時代の記録写真などを連想してしまう。
それなのに食糧支援の袋に入っているのは2キロ足らずの米とふりかけが数個のみ。かつては野菜、数種のレトルト食品や日用品などで重かった袋も最近はこんなに貧相になっていたのか。
小生が生活保護を利用しはじめた10数年前は人口10万人のこの地方都市で生活保護利用者は300人余りだった。それが現在は500人を超えたという。
地方の疲弊が語られて久しい。こんな田舎でも生活困窮者は激増し、貧困の度合いは過酷さを増している。
すでに「長閑な田舎暮らし」という陳腐な形容はただのポエムか、富裕層限定の言葉になったのかもしれない。
さすがに寒冷地だからホームレスの姿は見ない。ただ公園の駐車場にはよく車内がゴミで埋まったボロ車が止まっている。住所をもたない車上生活者、貧困ジプシーである。

開高健賞を受けた大山史朗の『山谷崖っぷち日記』を読むと社会の最下層である山谷の立ちん坊(労務者)にも階級差の境界が歴然とあるという。
それは住居(ドヤ)の有無ではなく「食べ物を漁るか、否か」だという。
そこは惨めさの程度が決定的に違う、という。
実は小生もかつてコンビニの廃棄弁当を漁って食っていたことがある。たしかに惨めだったが背に腹は代えられない。
ただ、あれは知り合いのコンビニ経営者の「何時にここへ出しておきますから」という温情にすがったのだった。本当の「食いもの漁り」ではなかった。
その本によると山谷の労務者も65歳ぐらいになると「福祉の手が伸びてきて生活保護という優雅な暮らしに落ちつく」のだという。小生も実感している社会福祉という救い(セイフティネット)である。

2週間ほど前に伊藤博一(右写真)が死んだ。
伊藤のことは前に山岡の武富士事件の件で書いたことがある。同世代の雑誌のフリーライター(お互いジャーナリストなどという肩書は厚顔にして僭越である)だったから東京にいるときは親しくつきあった。よく一緒に飲んだ。
伊藤も晩年の10年ほどは小生と同じく腎不全の人工透析患者で最後は車椅子生活になり介護施設にいたらしい。聞けば悲惨な晩年だったという。
伊藤と知り合ったのはもう40年もむかしのことである。
93年に「ゼネコン汚職」のスクープで新聞協会賞を受賞した産経新聞の司法記者に宮本雅史がいる。いまでも小生を「兄貴」と呼ぶ唯一の男である。親友である。
ある晩、宮本と飲んでいると彼が「伊藤博一って知ってますか」と聞いてきた。そんな男は知らない。面識はない。
その伊藤なる男が宮本に「新藤なんかとつきあうとロクなことはない」といったという。それは事実間違ってはいない。ただ見ず知らずの人間に言われる筋合いはない。
ふざけたことをいう野郎だと怒った。当時はコワモテ記者で売っていた時代である。すでに野村秋介さんや阿部勉さんという右翼との濃密な交遊があった。
小生が激怒していると耳にした伊藤は恐らくその人間関係にビビったのだろう。知り合いの松永他加志などを仲介に様子を探ってきたりした。
伊藤との邂逅はの飲み屋「ル・マタン」だったが居合わせた「噂の真相」の岡留安則さんなどは大乱闘を期待したらしい。やじ馬である。

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