筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。
先日、毎日新聞の「蔵出しPhotoアーカイブ」という連載企画で、戦前・戦後のダンスの風景を追う写真記事があった。社交ダンス、GOGO、ディスコ、原宿タケノコ族などはおなじみだが、面白かったのは「田んぼが広がる農村でスクエアダンスを楽しむ男女」(1949年。長崎県)の光景だ(冒頭写真)。学生服姿が何人もいるので地元の大学生だろうか。調べてみると、戦後まもなくGHQの民間教育担当という部署で、民主化政策の一つとして地域や学校のレクリエーション行事にスクエアダンス=フォークダンスの普及に力を入れていたらしい。
そういえばこちとらも小中高と、体育の授業や運動会・体育祭などで、フォークダンスを踊らされていたっけ。思い出すのは「オクラホマ・ミキサー」とか「マイム・マイム」とかで、男女が手をつなぐときに、指先だけでちょいと触れたりするだけで、恥ずかしがったりした。高校になると、ポルカというダンスもやらされて、社交ダンスみたいに右手を相手の腰のところに当ててグルグル踊るのだが、「オクラホマ・ミキサー」なんかと違って結構ドキドキしたもんだよ。順繰りに相手が変わって、好きな子に当たるともう舞い上がって(妄想の中では抱きしめたりしちゃって)踊りもぎこちなくなるのだった。「〇〇と△△のダンス見たかよ。すげえ密着してたぞ」「あいつら出来てるよ」なんて茶化したりしてね。しかしこんなフォークダンス体験って、高校時代で終わってるんだよな。
大学時代になると、フォークダンスをする機会はほぼなくなる。当時、日本共産党の青年組織である民青(民主青年同盟)に入ると、交流を深めるために歌声喫茶で合唱したり、フォークダンスをやるというのはよく聞いていた。