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新藤厚 1951生まれ(73歳)
1971年 週刊誌記者
79年~84年 テレビレポーター (テレビ朝日・TBS)
84年~99年 「フライデー」記者
99年~2008年 信州で民宿経営
2013年より生活保護開始
この与太記事のテーマは第一にナショナルミニマム(最低生活費約10万円)での老後が「清潔で文化的な暮らし」なのかどうかを貧困老人の実生活に即して検証することにある。
ナマポというのはノマドなみに楽しい暮らしなのだと錯覚させるのがひそかな目論見である。
生活保護は恥というよりは清々しいシンプルライフなのだ、と思わせたい。
筆者のメンタリティは左翼ポピュリズムに限りなく近い。
今回もまずナマポ老人の優雅な日常について記す。
今年もまたアパートの軒下にイワツバメが巣をかけた。ようやく山国の遅い春である。
この時期には毎年近くの山で残雪登山を愉しむ。
早春の一日、浅間山の外輪山・黒斑山(2404米)に登った。登山口の車坂峠は標高2000米、気温氷点下3度。山に吹く風はさすがに冷たい。
雪の斜面を歩くのは気持ちがよい。雪に突き刺さるアイゼンの踏みごたえが小気味いい。トレールをそれると膝までツボ足になるから無雪期より疲れる。
突如、眼前に巨大な浅間山が姿を見せる槍ヶ鞘の絶景は何度見ても素晴らしい。山頂からの第一外輪内壁の雪模様も素晴らしかった。
平日の山は老人だらけである。平均年齢は60代後半ぐらいか。県外からの登山客の方が多い。
体力に自信のない老人でも雪山気分を味わい安全に短時間で登れるから人気の山なのだ。
それでも疲れた。途中で宿痾の腰痛がひどくなった。持病の尿毒症からくる貧血症状もでて何度か雪上にうづくまった。
人工透析をしていても尿毒症状は完全には消えない。現代医学の限界だから仕方がない。
考えてみれば小生もいつの間にか日本人男性の「平均健康寿命72歳」を超えているのである。しかも腎不全の1級身障者。いつまでもこんな山登りができるわけではない。
だから毎回、これが最後と思い定めている。老人の山登りがこころにしみて感慨深いのはどこかにその諦念がひそんでいるからである。
今回の山遊びの費用。交通費は山友老人のクルマに同乗でタダ。帰りの温泉(障碍者割引)400円のみ。
「中卒」を売りにした西村賢太が死んで低学歴の作家もいなくなった。私小説に殉じたステキな死にざまだったが、ファンとしてはもう北町寛多が読めないのが寂しい。
小生の「中卒」という低学歴の履歴も生涯ついてまわった気がする。
わが団塊世代の昭和30年代、家が裕福でなければ中学校の劣等生はまず高校進学など考えなかった。中学を出るとみんな少年工として町工場などで働きはじめるものだった。
東北からは集団就職の少年少女たちが夜行列車で上野駅に着いた時代である。中島みゆきの「地上の星」は高度成長期の若年労働者のレクイエムである。
小学生の頃から学業不良で勉強はさっぱりできなかったから、小生も中学を出ると近くのベアリング工場で見習いの少年工になった。同い年の仲間は茨城から集団就職で上京した少年たちだった。この工場には思い出がふかい。いまでもウェスにしみこんだ機械油の匂いを憶えている。
午後の休憩時間に工場の外に出てブロック塀にもたれて煙草をふかしていると(あの時代は16歳の少年でも働いていれば煙草を吸った)、高校に進学した同級生たちが革の手提げカバンなんかを持って目の前を通るのである。
どちらも声もかけず目も合わせない。すでに棲む世界が違ったのである。若くして世の中から落ちこぼれたのかもしれないと思った。
今風にいえばニヒリスチックに「人生は一片のクソ」という気分だった。
あれが生涯をとおしてこころに巣食ったルサンチマンの最初の目覚めだったのかもしれない。
それからご多聞に漏れず寺山修司の『家出のすすめ』を読んで家出をしビーチボーイをしたりテキヤの手下になったり土方をしながら全国を放浪していた時代があった。そして二十歳のときに週刊誌業界に流れつくのである。
考えてみるとわが親戚一族には大学にいったという人間は一人もいない。そういう頭脳劣等な血脈である。「DNAと環境」といえば身も蓋もないが、宿命とはこんなものである。甘受するしかない。
ただ時代がまだ高度成長期の最後にあったからどんな仕事にももぐりこめた。それで何とか食っていけた。世間にはいっとき学歴不要論なども流行っていたからそれほどひけ目も感じなかった。
それなりに家庭をもってから「貧困の連鎖」をしみじみと感じた。子どもたちもまた学業不良だったのだ。どうにもならないDNAと環境である。
だから男の子には少年自衛官をすすめた。高校の入学金が高くて用意できなかったのだ。
子どもの母親が内職をしてそのカネをつくり何とか底辺高を出したのではなかったか。もちろん大学など夢のまた夢である。
こうして低学歴や貧困は世代を連鎖していくのだと思った。
時代を経て60歳を過ぎてから生活保護を利用するようになる。
65歳までの稼働年齢の間はケースワーカーの指導で月に3回職安に通って就業活動をさせられた。ここでまた中卒という学歴がネックになった。応募条件が年齢不問でも必ず「高卒以上」がついてくる。
だから作業所で時給300円の菓子箱折りなんかをさせられたりした。ゴミの分別や便所掃除のようなブルシットジョブは泣きながらやったものである。
すでにお気づきのように、タテマエは格差、生活保護問題をうたいながら実は老人はわが悲惨な来し方をふり返っているだけである。貧乏の来歴を語っているだけである。
つまり老人趣味の「人生の総括」をしている。最近は「終活」などといって流行している。
残りの人生が2年と少なくなってきた。仮性認知の症状も日増しに進行しているのでどうか寛恕してもらいたい。