筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。
マガジンハウスの名編集者として活躍した木滑良久が7月13日に亡くなった(享年93)。
木滑氏は、『平凡パンチ』『アンアン』『ポパイ』『ブルータス』の編集長を務め、特に70~80年代のマガジンハウス(平凡出版)の黄金時代を牽引したのだった(88年社長就任)。
こちとら中学~高校時代だと、若者男性誌のトップは『平凡パンチ』でライバルが集英社の『プレイボーイ』だった。ところが1976年に『ポパイ』が創刊されてから『ポパイ』の時代が始まり、ライバル誌は講談社の『ホットドッグ・プレス』になった。やがて「ポパイ少年とオリーブ少女」なんて呼ばれたり、さらに『ハナコ』や『ターザン』も登場して、雑誌が時代のトレンドになる幸福な時代がしばらく続く。
一方、『ポパイ』が創刊された1976年頃に読んでいた雑誌といったら、『現代の眼』『流動』『話の特集』『面白半分』『宝島』『映画芸術』『ムービーマガジン』とか、総会屋系新左翼雑誌かカウンターカルチャーっぽいものばかりだ。
あの当時『ポパイ』を読むのは、アメリカ西海岸かぶれの軽薄ノンポリのお金持ち学生だと思っていたのさ。ところが1979年、テレビCMのプロダクションに正社員として働いていた頃、スタッフから出先の広告代理店の関係者まで、デスクにはいつも『ポパイ』があった。特に広告業界は、『ポパイ』が発信する新しい情報やセンスは不可欠だったわけだよ。どんなものかと注視してみたら、確かに情報の集め方、見せ方はさすがだと思ったね。
その後、編集プロダクションを経て、フリーで情報誌『アングル』(主婦と生活社)に関わると、「マガジンハウスに負けるな、追いつけ」が合言葉みたいな感じで、編集者と飲むと、いかに自分の会社がマガジンハウスに比べてダサくて遅れているか、なんてボヤキもしょっちゅうだったのだ。
しかしこちとらダサいB級グルメ路線で好きなように書いて本を出したら(1985年)、なんとあこがれのマガジンハウスからお声がかかり『平凡パンチ』と『クロワッサン』からインタビュー取材が来たんだよ。(さすがに『ポパイ』や『ブルータス』は来なかったけど)。その後、『クロワッサン』で何回か仕事をしたけど、ほかの出版社にない独特な雰囲気があった。