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<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第84回「大森一樹のゴジラ映画」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 ここんとこ著名人の訃報が続いて追悼ものが多くなったが、映画監督・大森一樹(11月12日、享年70歳)は、ほぼ同世代(1年上)で、学生時代の自主製作映画から注目していたのでとりわけショックだったよ。
大森監督は京都府立医大卒業で医師免許も持っているのだ。学生時代に撮った『暗くなるまで待てない』は、こちとらも自主上映会で上映したことがあって、いかにもアマチュアなんだけど、映画青年らしいパロディと遊び精神にあふれた青春映画の快作だった。未見だが『明日に向かって走れない』とか『死ぬにはまにあわない』なんて冗談のような作品もある。そうしたら、なんと26歳にして松竹でメジャーデビュー(『オレンジロード急行』78年)を果たしたのだからびっくり。ただし気負いすぎたのか、イマイチ面白くはなかったし、評価も低かった。
 一発屋の歌手みたいに終わりかなと思っていたら、その3年後の80年、ATGで撮った『ヒポクラテスたち』は、大森自身の医学生時代の情景を重ねて描いた傑作で、あの伊藤蘭が女優への道を歩む契機にもなった(あっと驚く有名人も何人か友情出演)。80年前後は、大森と前後する近い世代では、森田芳光、相米慎二、井筒和幸、崔洋一、長谷川和彦、石井聰互といった俊英が活躍し始めた。そんななかで大森は、アイドル物からコメディ、やくざものまで器用になんでもこなしたが、なかでも大チャレンジだったのが、平成ゴジラ映画の2作品であった。

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