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<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第79回「吉田茂『国葬』と中学時代」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 安倍「国葬」も反対の方が多数でとんでもない展開になってきたが、そもそも「国葬」は戦後~現代ではあり得ない話だろ。一つだけ例外として吉田茂の「国葬」(1967年10月31日)があった。実はこちとら当時、中学2年。漠然とした記憶だけど「国葬」の日の雰囲気を覚えている。
この日は午後から官庁や学校は休みになり、黙とうの時間にはサイレンが鳴った。午後のテレビ・ラジオはほとんど特別番組で、CMや歌番組、お笑い、公営ギャンブルは自粛されたのだ。ところがこないだ当時の「国葬」の様子を追った報道番組を観ていたら、黙とうの時間、銀座4丁目の交差点では交番の警官だけが黙とうしていて、一般の通行人のほとんどは「何やってんの?」てな表情でふだん通り、歩いていたり、おしゃべりしている。あれま、国民全体が追悼していたじゃなかったの。
 そういえば通っていた中学は、午後の授業はなしでウイークデイなのに「やったあ、もうかった」てな雰囲気だよ。一斉黙とうも覚えがない。覚えているのは、給食の時間、いつもだと音楽が流れる校内放送でその日だけは、教頭が「国葬」と吉田茂の解説していた。ただみんなおしゃべりしながらで、まともに聞いていないし、話題にするのもいなかったよ。

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