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<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第4回 「生涯の兄貴」だった阿部勉さん

 月日の流れは分母の年齢に反比例するので、老人の時間は矢の如く過ぎ去る。
二十歳の時の一年は「二〇分の一年」だが、六〇歳の一年は「六〇分の一年」だから短い。三倍の時の流れだ。
早いもので阿部勉さんの命日「閑人忌」(十月十一日)も、もう十一回目になる。
「生涯の兄貴」だった阿部勉さんについて改まって語ることは難しい。
 その死の四カ月前まで、遡れば十年、千回を越す酒席のあれこれは、問わず語りで滲みだしてくることはあっても、それもすべてちっぽけな断片でしかない。この人物について語ることは、我が身を語ることになる。
「阿部勉」のイメージに自然の風物は不思議なほど似合わないという偏見もある。たしかに小生との交友の大半は新宿の隘路のような狭斜の巷、殆どは歌舞伎町の一隅ゴールデン街である。
それでも阿部さんは故郷、東北の片田舎、角館を愛していた田舎者である。同じ田舎者の小生は、その息づかいを感じるほど「兄貴」を身近に感じることができる。
「死者との対話」は老人の得意技でもある。
その意味で過去の死者は「私」が忘却するまでは、生き続けることになる。
この春、それまで十年近く身近に置いていた阿部さんの「楯の会」の制服を長男の孝人に返した。今風に言えば「終活」というのか、身辺整理をはじめたからだ。過去の残滓を整理して身軽になることで見えてくる世界もある。
 その動機は「早く死にたい」という老人のわがままに他ならない。
「閑人忌」にお祀りらしきことは特にしない。阿部さんの遺児たちに電話をかけて安否確認をするぐらいだ。不肖の舎弟はその子等にしてやれることなどない。ただ元気でいればいい。
ひとの交わりには四季があり、濃淡がある。昭和の終わりから、その死までの十年間に千回の酒席。それはあくまで「個人的な体験」である。他人に解って貰おうとは思わない。
その日は気鬱だったこともあって終日蟄居して本を読んでいた。
山平重樹『最後の浪人 阿部勉伝』。この本は企画当初から噛んでいたので見るたびに感慨がある。最初の打ち合わせは菅平の「阿部勉記念民宿・閑人舎」で行った。
鈴木義昭『風の中の男たち』は阿部さん本人から貰った。昭和六一年の雑誌「アシュラ}の記事『究極の右翼・新無頼派行動学入門』が収録されている。
今年二月に亡くなった立松和平さんの連作「晩年まで」の『浪人』は、平成十九年の『晩年』には未収録なので「三田文学」二〇年冬期号で再読。
「阿部勉さんってどういう人だったんですか?」
 いまでも左右を問わず聞かれることが多い。
ウィキペディアに載っている「阿部勉」は当然ながら「右翼運動家」「早稲田大学法学部卒」(実際は学費未納による除籍)「楯の会一期生」「鈴木邦男とともに一水会を設立」「維新政党・新風の初代綱紀委員長」という味気ない記述のみである。
阿部さんの葬儀委員長をつとめ“右翼の良心”といわれた民族派の最長老だった故・中村武彦先生は弔辞で言った。
《……君は世間普通の常識的な物差しでは、とても計ることのできない機略縦横、底知れぬ英知と愛情と堅剛な意志を持った天才児でした。風俗の理解を超えた端倪すべからざる存在ではありましたが……》《その冷静なる知性と学識が維新陣営第一流であったことは、誰しも否定しませんが、その飄々として時に無責任に見え、時に非情に感ずる振舞いのなかでも、その思いやりと親切は人一倍であり、まことに友情と信義に篤かった(後略)》
最後の十年、その親切を最も享受したのは多分、小生だろうと思う。

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