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<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第17回「映画は『生活必需品』。現代版『シティロード』復活を!」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 大林宣彦監督が亡くなって思い出したのは、映画ファンでもほとんど知られてない幻の作品『伝説の午後・いつか見たドラキュラ』だ。
これは大林監督がまだ30歳の頃(1967年)に自主製作で手がけたインディーズの先駆けともいえる映画で、大林監督がこよなく愛した吸血鬼映画や西部劇などへのオマージュとパロディ、遊びの精神あふれた楽しいアマチュア映画といえるものだった。このパロディや遊びは、その10年後の『ハウス』で開花するのだが、30代の大林監督はまだテレビCMの世界で活躍する人だった。
この映画に出合ったのは1977年、『ぴあ』展の会場だった。
『ぴあ』展というのは、情報誌としてメジャーな存在となっていた雑誌『ぴあ』が開催した文化祭のようなもので、確か会場は練馬区にある東映大泉撮影所だった。『ぴあ』展自体は、中途半端なバイキング料理みたいで面白くなかったが、映画上映の会場で『伝説の~』をやっているのを発見し、ちょうど『ハウス』を観たあとでもあって、期待して観たのであった。映画は学生がつくった8ミリ映画のような気分があふれていて楽しかったが、そこでいろいろと甦ってきたのが、この頃の『ぴあ』や『シティロード』、さらには『アングル』といった、映画・演劇・コンサートなどの情報を詰め込んだタウン情報誌の世界だ。
『ぴあ』が創刊したのは1972年。こちとら浪人時代、書店で見かけて「へえー、こんなのありなんだ」とその発想に感心して早速買い求めた。まだ薄っぺらで、つくりも素人くさかったが、都内の映画館の1カ月分のスケジュールが網羅されているのはありがたかった。

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