筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。
『男はつらいよ』が第1作の封切りから50年というわけで記念映画も作られた、渥美清が生きていたら91歳だという。どんなジジイになっていたか、観たかったな。こちとらが初めて『男はつらいよ』を映画館で観たのは1970年、高校2年の時、池袋の文芸坐で『続・男はつらいよ』との2本立てだった。2本立てで100円だもん、映画ファンの貧乏若者にとってはありがたい名画座だったのだ。
しかし、初めて観てそのあまりの面白さに爆笑の連続。それから、名画座で追っかけて80年代中頃までは欠かさず観ていた。観なくなったのは、寅次郎がだんだんヤクザっぽくなくなって、普通の人、さらには好々爺風になっていったからだ。それでも振り返ってみれば、戦後日本映画史上これだけ長期(~1996年。渥美清の死去まで)にわたって、高水準で作られた大衆娯楽映画はほかにない。
実は『男はつらいよ』の撮影に2度遭遇したことがある。1度目は1970年の11月頃、高校の友達と柴又を訪ねたところ、何と正月封切りの新作を撮影していたのだ。「とらや」の近くでカメラをセッティングしていたので、これは映画に出してもらえるかもと期待したら、助監督に「そこ、邪魔だからどいて」と追い出されてしまった。周りにいた通行人はエキストラだったのだ。そこでカメラの後ろから観ていたら、目の前を倍賞千恵子が乳母車を引いて(息子役はまだ1歳)通りがかり、佐藤娥次郎は帝釈天の境内のそばで掃除をしている。セリフもなく映画では5~6秒でしかないシーンを何度も繰り返している。「とらや」の中も撮るのかと思ったら、あれは撮影所のセットだったらしい。
そのセットがある松竹大船撮影所で9年後、今度は本物の渥美清に遭遇した。その頃、小生はテレビCMのプロダクションで、制作進行という映画の助監督のような仕事をしていた。この時は、ある商品の撮影で大船撮影所を訪れたところ、ちょうど「とらや」のセットが組まれていたセットで撮影を終えた渥美清が寅次郎の扮装でスタスタと廊下を歩いてきたのだ。