アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第16回)「岡田茂の死と高倉健」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 日本映画界のドンと言われた東映名誉会長の岡田茂が亡くなった。思い出すのは1973年、東映で『仁義なき戦い』が大ヒットした時、衰退しつつあったメインのやくざ映画路線で新たな地平を切り拓いたとインタビューを受けているシーン、これがまたえらく豪快で威勢がよくて、口八丁のテキヤの親分みたいな印象。東大(帝大)出の文学青年、若きプロデューサー時代は、あの『きけわだつみの声』で当てた人とは思えなかったぞ。意外といえば、息子の岡田裕介。その頃、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(70年)に始まる東宝青春映画の一連の路線で、いつも優柔不断なおぼっちゃま風の若者役が似合っていた。当時、東映実録路線を追いかけながら、60年代の東映、日活を中心にハードなアウトローものにはまっていたこちとらからみれば、岡田裕介なんて対極的な「軟弱男」だったわけさ(その後は親父のあとをつぐのだが)。さて今回の件で、う?む、と考えてしまったのはもう一つ、高倉健はどうなのってことだ。
 高倉健は、『昭和残侠伝』や『網走番外地』シリーズのようなヒット作でスターになったのだが、70年代以降はやくざ映画を嫌がったらしく『仁義?』など実録路線にも出ていない。一方で、山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』で新境地、以降『冬の華』『八甲田山』『動乱』『居酒屋兆次』『駅』『鉄道員』など、どちらかというと文芸大作の方面に行くと。こういうのが、映画俳優としての理想のあり方みたいに語られたっけ。

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