アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第9回)「中年御三家と1974年」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 先日、珍しく「徹子の部屋」を見ていたら、35周年スペシャル企画として、加藤武、小沢昭一、永六輔の3人がゲストに登場。3人とも、すっかり爺さんになってしまったが、その爺さんぶりがなかなかいい(黒柳徹子の婆さんぶりもキュートである)。考えてみれば、月曜から金曜まで、家で仕事をしているときは必ず聴いてるTBSラジオで、「小沢昭一的こころ」はもう38年、永六輔の「誰かとどこかで」は実に44年になるのだった。そこで、思い出したのは小生がまだ青春真只中の学生時代、1974年には、中年御三家(小沢昭一、永六輔、野坂昭如)のコンサートに、1976年には、「小沢昭一的こころ」の記念イベント(このときに上映された小沢主演映画が『大当たり百発百中』『ネオン太平記』)に行ったことだ。
 この中年御三家というのは、当時40代だった(いまどきの40代とは違って戦中体験もあってか老けていた印象)3人が、たまたま歌のほうも才能があって、おまけに話も面白く、なかでも野坂はこの年に参院選に出馬するなど、硬軟とりまぜての大スターだったこともあって、武道館が満員になったりしたのだ。こちとらが出向いたのは、学習院大学の学園祭で、ピラミッド校舎と呼ばれる大講堂が超満員だった。しかし、この1974年という年は、ドラマチックな年だった。

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