アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第18回)「映画『マイ・バック・ページ』=1971年の思い出」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 観てきましたよ、『マイ・バック・ページ』。良いとこも不満なとこもいろいろあるけど、あの時代を知らない若い監督、脚本(30代)のセンスと感性は、団塊の世代ノリよりは新鮮ではあった。前回も書いたように、激動の年の割には、意外に見落とされている1971年、こちとら高校2~3年生で映画で描かれている「事件」については、何とも不可解というか、映画のなかの『週刊東都』のカバーガール(忽那汐里)が主人公に吐いたセリフを真似すれば、何とも「いやな感じ」がしたことが記憶に残っている。ちなみにこのカバーガールは実在のモデルがいて、川本の原作の中でも描かれているが、少女時代からモデル、タレントだった保倉幸恵。彼女は1970?71年の2年間『週刊朝日』のカバーガールに起用され、「今週の幸恵」という味わい深いミニコラムも書き、その後、1975年に鉄道自殺する。同じ1953年生まれ、そういえばなあって記憶が甦ってくる。映画では登場シーンも少なく、事件とも無関係なのだが、実は重要な役回りなのだ。
 一つは、彼女が妻夫木聡扮する沢田(川本のモデル)と映画に行くシーン。映画は、当時後期ニューシネマとして評判の『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970年米映画、日本公開1971年、ボブ・ラフェルスン監督、ジャック・ニコルスン主演、今は亡き飯田橋佳作座で観たよ。)で、終わったあとに、沢田は彼女に、「つまらなかったね」と(どうせ高校生の小娘が、こんな暗い映画好みじゃないだろうって感じで)言うと、彼女は意外にも「よかった」と、しかも男が泣くところが良いのだと、『真夜中のカーボーイ』のダスティン・ホフマンと併せて誉めるのだ(このシーンはラストの伏線になっている)。ここはなぜ『ファイブ?』なのかがドンピシャとくるんだ。これが団塊世代の作り手ならば『イージーライダー』や『いちご白書』あたりを持ってくるのだろうが、それじゃダメなのよ。

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