筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。
寺内タケシの死去(82歳)は衝撃であった。新聞、テレビでも扱いが小さかったが、エレキの神様とか世界三大ギタリストとか言われ、全国の中学や高校1000校以上も回って「エレキは不良の温床ではない」と説いて演奏した偉大なおっさんなのである。特に昭和カルチャーを語る上で、寺内タケシとエレキブームは欠かせないのだ。
こちとらが小学5~6年にかけて(1965年頃)、ベンチャーズが超人気だった。ヒットパレードでも『ダイヤモンド・ヘッド』『十番街の殺人』『パイプライン』『キャラバン』『急がば回れ』なんてのが上位にランクされ、小学校の教室では、放課後の掃除当番がほうきを持って(ギターの代わり)「テケテケテケ」なんてベンチャーズの真似をしていたのだ。そんなわけでエレキは日本中の若者の間で広まった。
特に高校生が文化祭なんかでエレキバンドでコンサートなんて後々当たり前になってゆくのだが、この頃は、「不良の温床」なんて言われて禁止されたりした。近所でも、エレキの演奏が聴こえてくると、「あそこの家は、息子がエレキやってて不良だよ」なんてもう偏見の目で見られ、ビートルズを真似して少しだけ髪の毛を伸ばした近所の学生なんて、「女みたいな髪しちゃって」とか、ほとんど変態扱いだったのだ。
そんなエレキが市民権を得るのは加山雄三の「若大将」シリーズ、特に1965年の暮に、『怪獣大戦争』と二本立てで封切られた『エレキの若大将』のヒットが大きい。だって「若大将」は健全な大学生の象徴みたいなものだったからね。そこで、若大将のエレキバンドをサポートするような役回りで映画にも登場したのが寺内タケシだったわけさ。