アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第25回「弘田三枝子の死とホコテン」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

弘田三枝子死去(73歳)のニュースは結構ショックだったが、テレビのワイドニュースや週刊誌でもほとんど話題にならなかった。
以前の森山加代子や梓みちよの時もそうだったが、どうも日本のメディアは芸能人、それも流行歌手の死去に冷たいような気がする。
今は歌謡曲もすたれ、そもそも流行歌手という言い方もないんだが、わしの小中高の時代はもう大変な存在だったよ。
そんななかで弘田三枝子が凄かったのは、まず14歳くらいから米軍キャンプでジャズを歌い、テレビのヒットパレードでも15~16歳くらいで、『ヴァケイション』とかあちらのヒット曲を日本語カバーにして次々にヒットを飛ばしていた。記憶にあるのは、丸っこくて愛嬌のある感じの少女なんだが声量は凄くて迫力満点、歌も抜群に上手かった。
65年には18歳でアメリカのニューポート・ジャズフェスティバルに出演し、あちらでも評判だったのだ。それからしばらく低迷期が続いたと思ったら、69年にはまるで別人のように変身して登場。「人形の家」が大ヒットして、翌年には、『ミコのカロリーブック』なんてダイエットに成功した体験を本にしてこれがまた100万部以上の大ベストセラーになったのだ。その後、愛憎のもつれで背中を刺されたりスキャンダルもあったが、まあ戦後のポップス歌手のなかではズバ抜けた存在であったことは確かだな。
さて、そのヒット曲の「ヴァケイション」から出て来た珍語が例の「ワーケイション」てわけだ。それのアホらしさは皆言っているので、ここでは話題にしない。というより、あの頃、やたらとヴァケイションだ、ヴァカンスだなんて言葉が流通しはじめた(1962~64年あたり)。まあ早い話が、海だ山だスキーだと庶民もレジャーをそれなりに楽しむようになって、歌も歌われるようになったというわけだ。

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