筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。
コロナで大学生も大変だ。
バイトがなくなって、親も倒産や失業だったりで、高い学費も払えず退学を考える学生も増加している。かと思えば、授業もオンラインで、わしの親類の一人なんて、せっかくこの春に大学に入ったのに誰とも会えない、友達もできない、サークルの勧誘もない、バイトもほとんどないと入学早々嘆いていた。こんな時に「学徒援護会」があれば救われるんでないかいと、わしは考えたよ。
「学徒援護会」(*学生援護会ではない)とは、戦時中に学徒動員されて戦後大学に戻ってきた学生を救済するために作られた文部省(当時)の外郭団体で、下宿・アパートの斡旋、アルバイトの斡旋、生活相談を主な業務としていた。学徒という言い方が時代を感じさせるが、こちとらも学生時代(1973年~78年)に、バイト紹介ではお世話になった。
バイト紹介所は上落合にあって、ここに朝早くから行って並ぶ。なかは日雇い職安のようなシステムで、壁紙(黒板にチョークだったかもしれない)にその日に紹介するバイトが書いてある。たとえば、「ビル引越し 50人 8時~17時5000円 渋谷」「交通量調査 30人 7時~19時 70000円 川崎」「デパートに絨毯搬入20人 21時~6時 6000円 銀座}てな調子で、長期のバイトも沢山あったが、お目当ては、明日の日雇い、あるいはその日の深夜の日雇いで、金欠のときはすぐに金が入るので良い条件のを狙って早くから並ぶんだ(抽選の場合もあった)。ちなみにこの日当、70年代半ばくらいの話で、普通の長期バイトで例えば店員とか工場労働で3~4000円くらいの時代だから、日雇い・日払いは割が良かった。
そしてバイトをゲットすると、隣の食堂で朝めしだ。ここの食堂が最高で、当時の大学の学食は「安い、不味い、冷めてる」の三拍子で大体評判が悪かったのだが、援護会の食堂は普通の定食屋風で、ご飯も味噌汁も美味かった。それで、金のないときは、ご飯と味噌汁と納豆だけ注文もできた(150円くらいだったと思う)。
このバイト紹介と食堂のある建物(上写真)は、援護会の学生寮にもなっていて、特に仕送りもない貧しい学生優先で4人部屋で月800円くらいだったはずだ。本来はその学生たちが利用する食堂で、行くと寝間着姿で食べてる学生もいたっけ。