アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第3回 野村秋介さんとの思い出

 前回の本連載で、「ピース缶爆弾犯人」牧田吉明のパセティックな晩年のポートレートを記したところ、元新左翼の何人かから反応があった。
大半が「あいつには迷惑を被った」という被害談なのには苦笑した。それが牧田の人生の柄だったから、もって命すべしだろう。何となく微笑ましい。
その牧田から「面白い人物を紹介する」と誘われて、新横浜のホテルで開かれた「大悲会十五周年パーティ」に行ったのは昭和五十八年の十二月らしい。そんな日付を鬱惚け老人が覚えているわけはない。たまたま山平重樹『最後の浪人 阿部勉伝』に書いてあったのを見ただけだ。「生涯の兄貴」だった阿部勉さんのことはまた書く。
 初対面の野村秋介さんの印象はまさに「端倪すべからざる人物」だった。明るく大らかで闊達な人だった。
昭和三十八年「河野一郎邸焼き討ち事件」で懲役十二年、出所一年足らずの「経団連事件」で懲役六年の計「獄中十八年」の行動右翼の素顔は小生の先入観を見事に裏切った。多分、その明るいカリスマ性に感染したのだと思う。
そのパーティは野村さん、須藤久さん、牧田の三人が並んで「フォーカス」の記事になった。「極右と極左、左右弁別せざる時代……」というような記事だった。取材したのは亡くなった土場喜徳さん。この人とも親しく付き合ったが「時代遅れ」の記者だった。
 懐かしい。まだ「フライデー」の創刊前で、小生は業界誌やテレビのレポーターなどをして喰っていた。そのとき、やはり初見だった作家の山平重樹に「一緒に二次会に行きましょう」と誘われた。山平も山岡俊介も小生と同じ三流週刊誌出身の後輩記者である。蒲田のスナックで呑み、野村さんから著作を二、三冊貰った。「読んで面白ければ連絡しますよ」と随分と偉そうなことを言ったものだ。振り返っても汗顔の至りである。
どんな経緯だっかは忘れたが、間もなくTBSの深夜番組「ニュースデスクTODAY」で野村さんをインタヴューして、「いま、新右翼とは?」というタイトルで二〇分ほどのレポート番組をつくった。このとき高田馬場の一水会で木村三浩とも初めて会った。
この番組は「右翼に好意的」と社内で問題になったらしいが、電波などは流してしまえばこっちのものである。それを機に野村さんとの交友がはじまる。平成五年の朝日新聞社の自決までちょうど十年の歳月、新宿のゴールデン街などでよく呑んだ。

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