アクセスジャーナル記者 山岡俊介の取材メモ

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<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第7回)「千家和也よ、甦れ!」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

  師走のある日、ラジオを聴いていたら、ゲストに作詞家の千家和也が出て、1970年代の頃の歌謡界の話をしていた。
千家和也といえば、「ひと夏の経験」(山口百恵)「終着駅」(奥村チヨ)「あなたにあげる」(西川峰子)「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみ)「年下の男の子」(キャンディーズ)「そして神戸」(内山田弘とクールファイブ)「なみだの操」(殿様キングス)などなど、1970年代のある時期の歌謡曲・流行歌、アイドルを語る上では不可欠の存在である。
 ただし80年代以降は、ほとんど聞かれなくなって忘れられた印象。同時代に活躍した阿久悠やなかにし礼に比べても、あまり注目されていないようだ。
番組を聴いてあらためてびっくりしたのは、千家和也という人は、70年代当時はもっとコテコテトンコツ味風のおじさんだろうと思っていたのだが、何と1946年生まれ、全盛時代はほぼ20代後半から30歳くらい。しかも早大時代は、学生運動にはまり、いつも隊列の前へ出ては機動隊に蹴られて痛かった、なんて話まで出てきたことだ。同時代・同世代の作曲家のホープである都倉俊一とえらい違い。
ところで、なぜ今、ここで千家和也を取り上げたのか。単におじさんノスタルジーではない。歌謡曲・流行歌が廃れてしまったこの時代にこそ、千家和也は、あるいは千家和也的なるものが出てこなければならないのではないか、な?んて思いが新年早々フツフツと湧き上がってきたというわけです。

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